(三高歌集より) |
雪山讃歌の歌詞著作権由来記
高村奉樹 |
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さあッと辷ればあの雪煙り 雪よ岩よ我等が宿り 俺達あ町には住めないからに
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この冬、AACKホームページの伝言板に、沖津が関東グループのスキー山行計画として鹿沢行きをよびかけていた。鹿沢温泉の紅葉館には「雪山讃歌」の歌碑があるそういという。
これを見て、歌の発祥地が少し気になった。実はチョゴリザ遠征のあと、わたくしは、この歌詞の著作権取得の仕事のごく一部を手伝ったのだが、うろ覚では、歌詩が作られたのは、新潟の関温泉となっていたように思ったからである。 この歌については、伊藤宏範理事が「追悼 土倉九三、一九九七」のなかで、AACKが文部省認可の法人となった一九六○年に発行された一枚の文書、著作権信託証書について紹介している。一九九三年頃、土倉さんから「「雪山讃歌」の著作権をAACKにとろうと考えついたのは僕だ」といわれたが、「詳しいことも聞かずにそのままになってしまった。残念なことをしたと思う。」と記している。 当事者の殆どが過去のひととなり、わたくしもどうやら老世代に属している現在、当時のことを少しは知る者として、この機会に「雪山讃歌」の発祥と著作権取得のことについて整理しておくことが義務かと考え、それらにまつわる一文を記すことにした。 まずは近藤良夫元会長に伺った。近藤元会長は著作権取得の詳しい経過は知らないが、以前、一九九三年に八三歳でなくなった工楽栄司さんへの追悼文に歌のことを書いた、と即座に文献を教えてくださった。 「工楽さんは、一九二七年に第三高等学校に入学し、山岳部に入部して登山活動を始めた。「三高歌集ー一九七八」によると、「吹雪のする日はほんとに辛い」で始まる山岳部歌が出来たのはこの年であるから、工楽さんはきっと西堀栄三郎さんなどと関温泉で一緒に合宿して、あの眼を輝かしながら、この歌を声高で歌っておられたに違いない。工楽さんはこのスキー合宿で会計をつとめている。」(山岳 第八十九年、二二〇ー二二一ページ)近藤先生は、この歌の著作権が問題になったのは、アンナプルナ?の遠征以来停滞していた会として、チョゴリザ成功を機にまたヒマラヤへの意気があがった頃で、チョゴリザ帰りの桑原先生がなにかと活躍された時期だったな、と当時の様子をまとめてくださった。 そういえば一九六〇年は五八年のチョゴリザについで、酒戸弥二郎先生ひきいるパミール高原学術調査隊がノシャックにむかった年である。その酒戸先生が雪山讃歌の由来を確か文芸春秋の随筆欄に記し、それが著作権取得のための裏付けのひとつになったということを、聞いたことがある。西堀栄三郎選集第2巻『未知なる山・未知なる極地』(悠々社刊、一九九一年)には文字どおり「雪山讃歌」を作詞したころ(初出 『山と高原』一九五六年一月号 ママ) の文章があり、西堀さん自身がまさに作詞のことを記している。 時代は昭和のはじめ、西堀さんたちが、三高を終えて京大に入った頃、赤倉、鹿沢、五色では二、三回、京大だけでなく東大と合同でスキー合宿が行われた。笹ケ峰にヒュッテができた頃でもある。「合宿が終って新鹿沢に泊まった。吹雪で滞在をよぎなくされたある日、四手井綱彦君や渡辺漸君と共に学校の山岳部の歌をつくろうではないかと提案した。しかし、わたしを始めこの連中は、およそ文才のない奴ばかりである。別に誰にほめてもらおうというわけではないので、でたらめな文句をならべたてた。その頃ラッセルをやりながらよく歌った「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」の曲が気に入っていたので、その曲にあうように。誰がどの文句をつくったかは忘れてしまったが、どれも合作であったようだ。薄暗い部屋で、四手井君が一句一句できるはしから書き留めていたのを思い出す。」 ところでなぜいとしのクレメンタインなのか。外人教師が三高の英語の時間にこの歌を教えてくれたのや、とこれは昔今西さんに聞いたように思う。間もなく西堀さんら昭三組は社会に出て、「あの歌をうたうこともなくなったが、それを受けついだ三高山岳部の若手連がいつとはなしに歌いなれ、それを三高の校歌集に組入れ」という題をつけた。何代かを経ていたので、讀人知らずとして。」 歌詞ができた場所はこれで特定された。 |
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いわゆる正調の合唱を聞いたのは、間もなく出かけた金比羅山での新人勧迎会でのことである。岩登り練習前夜、わたくしたち新人部員は、江文神社の社殿で焚き火で歓迎され、中島ダンナ、斉藤Yさん、新人係の菊池クメローさんらの先導でいつしか雪山賛歌の合唱の渦に巻き込まれていた。その後も夏山の豪勢な焚き火をかこみ、とくに冬の笹が峰のストーブを囲むときの意気盛んな合唱。冬が似合うのも、歌詩に冬山登山の基本動作と感情が素直に読まれており、作られたときの雰囲気がいとも自然に伝わるからであろうか。 |
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| ところで、作詞された場所である。関温泉か、またそのころ妙高に京大ヒュッテが建設されているから、歌詞が継続的に創られ、複数の合宿地でブラッシュアップされたとしても不思議ではない。西掘さんの文章は読んでひととおり見当はついた。しかし今回はこの辺りについて、きっちりダメを押しておきたい。 | ||
ルームに残っている関係書類のなかに、日本音楽著作権協会会長 西条八十氏から送られた 社団法人京都大学学士山岳会あての著作権信託契約締結についての昭和三五年十月七日付け証書、送り状などが保存されている。しかしどういう形で申し入れたかについては資料がない。そこで念のため著作権協会の担当者に昨日直接電話で問い合わせたところ、内国資料部 内国一課からファックスが届いた。資料はこれだけでしたという添え書きとともに、二通の確認書のコピーと、わたくしが探していた酒戸さんの随筆のコピーがちゃんと送られてきた。最近はダークダックスのメンバーのひとり佐々木氏が病気で、あまり歌われませんねと担当の矢嶋さんも残念そうであった。とにかく四手井さんの確認書があるのは初めて知った。内容はつぎの通りで横書きである。 |
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雑誌〃文芸春秋〃昭和35年5月号に掲載された酒戸弥二郎氏の「雪山讃歌の作者」に記載された事実は真実であります。私は当時、京都帝国大学学生としてこの行に参加しておりましたが、昭和二年一月、吹雪に閉じこめられた鹿沢温泉の宿舎で西堀栄三郎氏が「雪山讃歌」を創作したことは上記酒戸氏の文章のとおりであり、爾後、旧三高山岳部部歌として歌われてきたものであることを確認いたします。
昭和三五年八月一七日 京都大学理学部教授 理学博士 四手井綱彦 印
もう一通もほぼ同文で、広島大学医学部長 医学博士 渡辺 漸で捺印されている。ちがいは「私は当時東京帝国大学学生としてこの行に参加し」というくだりと日付が同年八月十日となっていることである。 ここで両氏の確認書が対象としている酒戸さんの文章「雪山讃歌の作者」にはどんなことが書かれていたのだろう。酒戸さんは、わたくしたちも「やじさん」と呼ばせてもらう気楽な先輩であったが、日本茶の旨味の成分、テアニンを茶葉から抽出し同定することによって日本農学賞を受けられた化学者である。 著作権協会から送られてきたコピーは、実は文春文庫に収録された文芸春秋「巻頭随筆(?)」一九八◯年三月刊、の三五一〜三五三ページに掲載されたもので、はじめの肩書きは(静岡大学教授)だが文章末尾には(故人)と記されている。
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「黒沢明の「生きる」という映画の中で、吉井勇作の「命短し恋せよ乙女」という歌を、無断使用したというので問題が起り、なにがしかの使用料を払って落着したとか聞いている。この話を聞いた時、パッと頭に浮んだのは「雪山讃歌」である。」にはじまるこの文章をすべて紹介するスペースはもうないが、「雪よ岩よ我らが宿り・・・この歌の著作権を取っておけば良かったのだ。そうすれば、ヒマラヤ行きの費用などは、いくらでも出るのだったのに・・・。」京都の第三高等学校の歌として酒戸さんが知ってるうた、「雪山讃歌」は当時流行の「南国土佐」ほどではないとしても、広く日本中に拡がり、大変多くの人に歌われ、親しまれている。さて三高歌集にすら作者不詳となっているこの有名な歌は誰がつくたのであろう。ということから、三十数年前、昭和二年一月には鹿沢温泉で、翌三年には東大の青木小舎で東大と京大の両山岳部交歓合宿がおこなわれたが、その夜の部で、興ののおもむくまま、第一回南極越冬隊長として知られている西堀栄三郎がこの歌を作ったことが紹介されているのである。なお当の西堀は、第二回合宿の帰り途、山を越して高湯温泉で滞在したときに作ったと主張しているが、酒戸さんはじ言では、第一回の鹿沢温泉滞在中に、数日に亘って作られたというのが、どうやら史実のようである。ー中略ーただ、この題名は誰が付けたのか、今もってわからない。」近藤先生の文章にも、工楽さんたちが関温泉でこのでき立ての讃歌を歌ったという事実が記されている。これで発祥地についての「真実」に疑問をはさむことは止すことにした。ただし前出の西堀さんの文章にはつぎのような一節がある。「わたしは岩登りも沢歩きも一通りやってみたが、やはり雪山の方が好きである。真白なスカイラインにくぎられた紺碧の空。今から四〇年も前に関温泉で初めて見たこの景色は、わたしを終に南極まで行かせてしまった。」やはり関温泉への思慕も深く、わたくしたちはそこにも雪山讃歌の世界をみるおもいがする。酒戸さんの文章に戻ろう。そのあとが面白い。なぜこの歌がこんなにまではやるのか、宣伝しているわけでもないのに。しかも「この歌の文句は、全体としても必ずしも名句と言い難く、中には甚だ幼稚な句も存在している。」と手厳しい。さらに「「町には住めないからに」などというのは京都弁まる出しではないか。それが全国にはやるから不思議である。」と大阪人「やじさん」癆続Bゥウノqべェoメアフノは積雪期登山の生活パターンと心情が、リアル、簡潔にまとめられているところ、一般の人々にとってはマーチ風の快活なリズムとともに、歌詞が日常生活と山登りのある種のアナロジーを感じさせるところが受けたのであろうか。こうした傾向をダークダックスの歌唱法とイメージがさらに助長した。tA明日は登ろうよあの頂きに。tAさて酒戸さんは、「本人は恥ずかしがってだまっているが、著作権使用料はともかく、彼の作ということは知っておいてほしいものである。」と締めくくる。これが掲載されたのは文芸春秋の五月号であるがその発売直後、酒戸さんはノシヤック向けて出発されたはずである。
先輩のなかでそれぞれに役割がおのずと決まっていて、酒戸さんは遠征に出る前にひと仕事してゆくことを求められ、作詞の中心人物西堀さんを中心に、文教専門委員である工楽さんが歌詞著作権の取得を画策したのであろう。チョゴリザの準備中になにかと桑原さんを応援した土倉さんが、仕掛人であったかも知れない。桑原さんはチョゴリザ登頂成功だけでなく、多くの同期の仲間を糾合して証人とし、雪山讃歌の著作権を後輩のために残すために大きな役割をはたしたものと思われる。 またその後の著作権が会に対して大いに貢献したのは主としてダークダックスであろうか。だれかに、かれらへの感謝の気持ちをつたえてもらうのも悪くはない。 いずれにせよこの歌の誕生は、笹が峰ヒュッテの誕生とほぼ時代を同じくしている。
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| 現在、新しいヒュッテをはじめ、次代のための大きな遺産が中堅の会員によっていろいろな分野で築かれつつある。今度はそれらが人類共通の使用権をみとめる壮大な遺産、音楽で言えば「交響曲」として笹が峰に響く日を待ちのぞみたい。 |